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詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

ひよっこ、奥茨城村編(四週間)の感想と疑問です

 

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 四月二十九日の第二十四回放送で、ひよっこの「奥茨城村編」が終了し、来週からは「東京編」が始まるので、このドラマのこれまでの印象について、語りたいと思います。

 

 ほぼ完璧な構成の第一話(第一週)で始まり、第四週までに、「これでもか!」と言わんばかりの、笑いと涙と名言が散りばめられている、この作品は、たとえ、視聴率的にはイマイチでも、近年のNHKの朝ドラを代表する、名作になる予感がします。

 

 元々、「田舎臭い話」や、「ある時代のノスタルジックな話」や、「楽天的な人間観を描いている話」が、好きじゃない人にとっては、監督や脚本家を始めとする製作スタッフが、どれだけ工夫をこらしたとしても、面白いものとは感じられないのかも知れませんが・・・特別、好みのうるさい、一部の人を除けば、ひよっこは、老若男女が楽しめる、NHKの朝ドラらしい作品だと思います。

 

 しかし、非の打ち所がないかと言うと、全てのドラマ作品がそうであるように、疑問が残るところ、ケチをつけたくなるところは、少なからずあります。

 

 例えば、この作品の第四週までは、奥茨城村編でありながら、脚本家・岡田恵和氏は、殆ど、村を描いていません

 

 描いているのは、みね子、時子、三男の三家族だけです。あとは、せいぜい、田神先生と、車掌の次郎がいるだけで、少なくとも人口が、千人単位でいるであろう、村に住んでいるとは思えない、かなり狭い、人間関係が描かれているだけです。

 

 奥茨城村の聖火リレーの時、「やる必要ある?強引な見せ場作りと思われても、仕方ないのでは?」という意見も、世間には(特にネット上では)あったようですが、もし、このエピソードが無かったら、みね子の学校や、村の青年団に焦点があたることもなく、奥茨城村に、あれだけ大勢の人間が住んでいることも、視聴者は、分からずじまいだったでしょう。

 

 そういう意味では、聖火リレーの話は、ドラマ上、かなり必然性のあった話だと言えると思います。

 

 また、聖火リレーの時、あんなに村人がたくさんいたのに、ちよ子と進の同年代の友達は、全く描かれません。ちょっと可哀想なくらい、いつも姉弟二人で遊んでいます。ここで、一人でも登場させて置けば、後々、何かに使えたはずだと思うんですが・・・。

 

 更に、みね子の学校の友達も、時子と三男との、外界とは遮断された、三人の世界があるだけで、名前のある生徒は、他に一人も出て来ません。

 

 何処へ行っても、あの三人だけの世界・・・ちょっと、不気味な感じすらしました。

 

 ちゃんと名前のある、クラスメイトの脇役の脇役を、二人か三人、入れた方が良かったと思います。そして卒業後、一人は奥茨城村に残る、一人は東京ではなく、茨城県内に就職する、一人は東京へ、働きにではなく、進学するとやれば、多様性(リアリティー)も出たし、やっぱり、後々、何かに使えたはずで、勿体なかったと思います。

 

 結構、大きいエピソードのはずの、みね子たちの卒業式も、ドラマの中で、学校生活を全く描いていなかったから、短時間でサラリとやるしかなく、正直、私は、さほど、感情移入出来ませんでした。

 

 このドラマの多様性の問題で言えば、みね子・時子・三男の三人組が、みんな農家の子供たちというのは、どうなんでしょう?せめて、時子くらい、村唯一の旅館の娘みたいな感じにして欲しかったような気がします。

 

 何しろ、このドラマでは、食堂や床屋や駄菓子屋などの、個人商店ひとつ、出てきませんから・・・みんな田畑で働き続けるだけ・・・祖父・茂が言っていた「奥茨城銀座(商店街)」、ドラマの中で、一度は見せて欲しいものです。

 

 とにかく、岡田氏は、茨城編では、第一に「みね子のキャラクター」を描き、第二に「みね子・時子・三男の友情(関係性)」を描き、第三に「家族の絆」を描きました。

 

 意地の悪い言い方をすると、このドラマにとって、農村(奥茨城村)という舞台は、東京編という本編を描くための、踏み台だったのかも知れません。

 

 おそらくですが、私がここで言ったような、あるいは、世間で「だから(○○がないから)、視聴率が伸びないんだ!」と言っていたものは・・・例を挙げれば、商店街だったり、イケメンキャストだったり、意地の悪いキャラだったり、嫉妬などの人間の負の感情が出る場面、予定調和ではない人間関係(ケンカする場面)は、東京編で、全て出ると思われます。

 

 あくまで東京編が本編だから、東京編でやることは、茨城編の中でまで、やる必要がなかっただけで・・・。

 

 農村(奥茨城村)は、岡田氏にとって、本当に描きたい東京編の「踏み台では?」と、私は言ってしまいましたが、それは悪く言えばであり、良く言えば、東京出身(東京在住)の岡田氏にとって、地方の農村は、美しいユートピアなのでしょう。

 

 だから、茨城編は、総じて「良い人たちの話(美しいユートピア)」で、東京編は、嫌な人もいるし、嫌なこともある、つまり「人間らしい話(俗で雑多な社会)」が描かれるのでしょう。

 

 

 少し余談になりますが、ひよっこの昼の再放送の裏番組、倉本聰氏の「やすらぎの郷」は、主人公がユートピアへ入る話、岡田氏の方は、主人公がユートピアから出る話となっているようですが、八十歳過ぎた人と、六十歳手前の人との世代間ギャップが、こんなところに出てしまうのでしょうか?

 

 そんな同じテーマ(ユートピア論)の、逆パターンを描いている二人の脚本家に、ひとつ共通するものがあるとすれば、双方ともに、「ユートピアとは、狭い世界だから成立する」と、感じているところなのかも知れません。

 

 


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  今日、東京へ旅立つ時子に対して、母の君子が泣きながら「どうしでも行ぐの?お母ちゃんを捨てて、それでも行ぐの?ねえ・・・考えでもみなよ・・・つまんねえんだよ・・・アンタが出てったら、ウチには、もう、このつまんねえの二人しか、いなくなっちまうんだよ!」と訴える場面、ひよっこファンから、「毎日泣ける」と絶賛された第四週放送の中で、私が個人的に、一番好きな場面です。