ひよっこ~ドラマとしての欠点が少なくないのに面白いという、不思議な現象について~
NHK・朝の連続テレビ小説「ひよっこ」は、テレビ小説というより、「テレビ漫画」、「テレビ演劇(コント)」と皮肉られても、仕方のない面がある一方、その点こそが、このドラマの大きな個性であり、ある種の挑戦であり、魅力となっている面と言えるかも知れません。
私は、ひよっこの、いちファンであり、毎日、欠かすことなく、このドラマを観ていますが、はっきり言って、突っ込みどころは、多い方だと思います。
ただし、ドラマとしてのクオリティーを一段も二段も、落としてしまうような、致命的なものではなく、ファンが「また、やってくれたな!」と、楽しんで突っ込めるようなものばかりですが・・・。
それでは、これから私は、ひよっこの欠点、少なくとも、否定的意見が出てもおかしくないものについて、いくつか、指摘しようと思います。
自分は、このドラマのファンだと公言して置きながら、長所ではなく、短所(欠点)について語るのも、おかしな話かも知れませんが、何事も、誉めるより、貶したくなるのが、私の悪い癖でして・・・ひよっこの関係者、並びにファンの皆さん、不快になることがあったら、どうも、すみません。
・・・先に、謝って置きます。
「物語の時間問題。曖昧でも構わないところで、正確に、細かく、今が昭和何年の何月何日と公表するので、整合性がつかなくなり、ネット上で突っ込まれてしまう」
「みね子の金銭問題。曖昧でも構わないところで、正確に、細かく、給料や家賃や仕送りの額、物の値段を公表するので、整合性がつかなくなり、ネット上で突っ込まれてしまう」
「父の実の失踪問題以外、あらゆる問題が、あっと言う間に解決。中でも、笑ってしまったのは、今週の『みね子のハヤシライスの盛付け問題』、そもそも、これは問題ではない(特に取り上げる必要がない)」
「みね子の心の声と、増田明美のナレーションの使い分けが、キッチリしていない。みね子の心の声も、『おどうさん・・・』を入れるか入れないかの使い分けが、キッチリしていない。増田明美のナレーションは、まるで、老人という大人に対し、子供をあやすように語る、駄目な介護士のようで、好みが分かれるものでしかない」
「いかにも、日常生活、いかにも、日常会話が行われているだけなのに、とんでもない、大事件が起きているかのような、大袈裟な音楽が鳴り響く、謎の演出」
「脚本家の頭の中で、登場人物の会話が盛り上がってしまうと、その日の放送のバランスも考えず、同じ場所で、同じ人たちが、延々と、世間話に近いものをやってしまう」
「脚本家の頭の中で浮かんだ、名場面、名台詞は、さほど必然性のない状況でも、やや強引に、放り込まれてしまう傾向がある」
「ドラマのナレーションや登場人物の台詞に、脚本家の言い訳や、開き直りが出てしまう。例えば、『友達百人出来るかな?』は、『ここぞとばかり、新キャラを登場させることに、違和感がある視聴者もいるかも知れませんが』という言い訳だし、『みね子の人生に、さほど影響ないでしょう』は、『メインのストーリーとは、関係ないことをしています』という開き直りだし・・・」
「綿引・愛子・鈴子などの、ありとあらゆる度を超えた親切は、『良い時代だった』では、片付けられないレベル?」
「登場人物の、心理・行為・会話が、あまりに現代的過ぎて、まるで、今を生きる人間が、過去の時代にやって来た、タイムスリップ・ドラマのよう・・・」
批判的な指摘を、10も並べてしまったので、最後に、ひよっこの最大の長所を、ひとつだけ(少ない?)、言わせてください。
ひよっこは、毎回、見終わった時に、「面白かった」という印象が最も強く残る、それが、「良いドラマとしての全て」ではないでしょうか?