詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

わろてんか(第1回~第3回)、朝ドラで、ヒロインの幼少期を描く意義について、考えさせられる、つまらなさ!


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 NHK・朝の連続テレビ小説「わろてんか」の、第1回~第3回を観た感想です。

 

 NHKの朝ドラでは、ヒロインに、モデル(原作)がある一代記と言えば、必ず、プロローグとして、大体、1週間程度かけた、幼少期を描くのが、お決まりのようですが・・・まず、面白かった試しがなく、何故、このような無駄な慣習が、NHKの朝ドラという、老若男女が注目する、人気のドラマ枠で続いているのか、私には、不思議でなりません。

 

 ヒロインの幼少期の場面なんて、必要なら、好きな時に、好きなだけ、回想でも挟めばいいだけだと思うのですが(まさかと思いますが、後々使う、幼少期の回想の、撮り貯めが目的というのなら、話は別ですが)・・・。

 

 で、今回の「わろてんか」の幼少期の話ですが、その内容自体、各場面自体、イマイチなうえ、ヒロインと、その家族のキャラクター紹介も、ぼんやりしていて、あまり、観る側の頭の中に、入ってこない印象です。

 

 脚本家や演出家が「比較的セオリー通りやっている」つもりが、視聴者からは「ステレオタイプのキャラクターが、ベタな話をやっている」と、解釈されているうえ、作り手が話のポイントとした場面が、ところどころ、微妙にズレていて、ちゃんと、点は打っているのに、その点を打っている事実を、多くの視聴者に、気付いてもらえていないようです。

 

 だから、シンプルな話なのに、イマイチ、内容が入ってこない、置きにいったのに、置いた場所が、やや間違っているので、「イマイチ、でも、朝ドラのヒロインの幼少期なんて、こんなもの」と評価する人が、少なくないのかも知れません。

 

 たった3話ですし、いちいち全部、ここがズレているのでは?と、指摘しても構わないのですが、そうなると、今度は、録画したものを見返さないといけなくなるので(申し訳ないですけど、このドラマの幼少期を語るのに、そこまでの情熱はないのです)、一番、気になったところだけ、話をします。

 

 第1回のオープニングの、てんと風太が、寄席に忍び込んだことがバレ、舞台の上で、寄席の人間と、ドタバタをやる場面、第3回で、早くも、同じ場面の使い回しが・・・第1回の放送の中のナレーションで「話は、お祭りの前の、少し前に遡ります」とはあったものの、大半の視聴者は、そんなことは忘れて観ているので、「デジャヴ?」と、違和感を抱かずにはいられなかったと思います。

 

 このエピソード、本当に、時間を遡らせて表現する必要(効果)は、あったのでしょうか?普通に、一直線の時間軸で展開していったとして、一体、何が問題だったのでしょうか?

 

 もしかしたら、脚本家は、オープニングの場面は、このドラマ全体を象徴するものだから(おそらく、このドラマの最終週にも、ヒロインの思い出として、回想に使うつもり)、第1週の間にやるのではなく、取り敢えず、真っ先にやりたかったのかも知れませんが、だったら、演出家の方が、第3回の方は、同じ場面を、別視点(別のカメラ)で撮ったものを放送していた方が、視聴者は、きっと、違和感を抱くことなく、観れたことでしょう。

 


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 話は変わって、藤吉(松坂桃李)が、てんからもらったチョコレートを、口の回りに付けているのは、「脚本に書いてあったのでしょうか?」、「演出家が付けさせたのでしょうか?」、「松坂桃李、個人の天然、あるいは、意図的なものなのでしょうか?」、そんじょそこらの怪談話より、はるかに、冷え冷えとする場面になっている気がしますが・・・。

 

 

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 前回の朝ドラ「ひよっこ」の、川本世津子救出大作戦の、「みね子は岡持ちを握ったまま、世津子はハイヒールを履いた状態で、記者の追撃を振り切る」場面を上回る、「風太は、てんをおんぶして、下駄を履いた状態で、大人の男の追撃を振り切る」場面が・・・そこにリアリティーがあるかどうかは別にして、この無茶な状況で、結構、走れてしまう、鈴木福の意外なパワー、称賛に値するかも知れません。