詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

ひよっこのストーリーの構造と、今後の展開について

 

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  NHK・朝の連続テレビ小説「ひよっこ」は、ネットのドラマ掲示板などで、「ストーリーに、殆んどヤマとタニがないうえ、一直線で、複数のエピソードが絡み合うかことが少なく、その割には寄り道が多く、展開が遅い」と叩かれているのを、よく見掛けますが、はたして、それは妥当な批判なのでしょうか?

 

 私なりに、分析してみました。

 

 

 まず、ひよっこは、近年の朝ドラで多かった一代記ではなく、青春記なので、物語のスパンが、10年となっているため、主人公の子供時代から始まり、老人になるまでの、半世紀以上のスパンで描く、他の作品と比べて、展開が遅い、あるいは、遅く感じるのは、仕方がないと思います。

 

 

 ストーリーの主軸になっているのは、主人公であるみね子の「生活と成長」であって、視聴者が驚くような大成功と、そのプロセスを描くという話ではないようです。そのため、ストーリーにヤマとタニが出来にくいのも、事実かも知れません。

 

 みね子のフラットな人生(少なくとも、他の朝ドラの主人公と比べれば)に、時折、刺激を与えるために、父親の失踪というエピソードがあり、「普通の少女の日常と成長を描く」という、ゴールの見えにくいストーリーに、父親捜しという明瞭な目的が、追加されています。

 

 また、みね子の「おどうさん・・・」という、心の声をナレーションにする手法は、ドラマ上で、物語の現状や過去を総括するのにも、今後の展開を予兆するのにも、コント的な場面に活用するのにも、大変、機能しており、脚本家は、そこに甘えて、多用し過ぎているきらいもあります。

 

「みね子は、そこに居なかったはずなのに、何でその話が出来るの?超能力者?そこは、増田明美のナレーションの方が妥当じゃない?」という場面も、チラホラありましたし、おそらく、これからも、チラホラあることでしょう。

 

 父親の失踪の理由を、脚本家的視点で考えると、このドラマを作っていくのに、大変、便利な「おどうさん・・・」を今後もやり続けるためには、父・実は、常に、みね子の遠くに居なければならず、そのことを踏まえると、父・実が番組終盤まで発見されない可能性も、決して、低くはないと思います。

 

 ただし、ネット上で噂の「父・実は記憶喪失説」が本当なら、回復までの(記憶を取り戻すまでの)過程を描くことになるでしょうから、物語の中盤で発見ということも、充分、あり得ますが・・・。

 

 

 ひよっこは、いかにも日常的な会話の中で、各登場人物のバックストーリーが展開したり、性格が表れる台詞が多くあり、「脇役がきちんと描かれていて面白い」という、ファンの声が多く、私もそう思います。

 

 しかし、その丁寧な脇役の描き方が、ただでさえ、自分自身に大きな目標のない、地味な主人公を埋没さてしまったり、ストーリーの展開を遅らせている側面も、あるかも知れません。

 

 ひよっこの、最も重要な脇役として、主人公みね子の親友・時子がいます。彼女は、みね子とは違って、「東京で女優として成功する」という大きな目標があり、もしかしたら、主人公のメインストーリーより、面白そうな、脇役のサイドストーリーと言えなくもありません。

 

 みね子と時子は、少なくとも、向島電機・乙女寮までは、ずっと一緒で、殆んど、ダブル主人公といってもいいくらいでした。

 

 しかし、これから、みね子はすずふり亭、時子は女優修行と、道が別れていくようなので、これまでと同じくらい、時子の出番があるとは考えにくく、やっとみね子は、主人公として一本立ちし、本来の存在感を取り戻すのかも知れません。

 

 

 私が、ひよっこを10話くらい観た時、このドラマは、「茨城編」と「東京編」の二部構成だと思っていました。

 

 ですから、このブログで、「みね子の高校の同級生の中に、時子と三男以外にも、名前のある登場人物を作って置くべきだった」と指摘したのですが・・・実際のひよっこは、「奥茨城村編」、「向島電機・乙女寮編」、「すずふり亭・あかね荘(?)編」の三部構成(もしかしたら、四部?)でした。

 

 私が、茨城で作って置くべきと思っていた、キャラクターたちは、向島電機・乙女寮で作るから、必要がなかった訳です。素人が、知った風なことを書き、脚本家の岡田恵和氏を始め、ひよっこのスタッフの皆さん、本当に失礼しました。  

 

 でも、こうなると、茨城編って、大本編「すずふり亭・あかね荘」と、直接関係のない、「四週かけた壮大なスピンオフ」でしかなかったことになるような・・・別に、茨城編を観ないで、みね子たちの上京から、このドラマを観始めたとしても、物語に、すんなり入れる構造ですし・・・それどころか、逆に、スピンオフとして、最後に茨城編を観て、「みね子たち、茨城に居た頃は、こうだったんだ」という楽しみ方も、普通に観るより、面白い気さえします。

 

 主人公のみね子の生活(仕事)の変化は、奥茨城編では、実家で農業(第一次産業)、次は、寮に住みながら工場勤め(第二次産業)、そして今度は、自分でアパートを借りてレストラン勤め(第三次産業)・・・計算され尽くした、構造と展開かと思われます。

 

 ただ、これは私の下衆な勘繰りかも知れませんが、もしかしたら、脚本家の岡田氏が、第一にやりたかった話は、「主人公の若い娘の、安アパートの住人とのふれあい、商店街の人たちとのふれあい」であって、みね子をレストランで働かせることにしたのも、金のたまごとして工場で働かせたのも、美しい農村をバックボーンにしたのも、安アパートと商店街のふれあいだけじゃ、ありきたりだし、半年持つかどうか、と考えた末のアイデアだったのかな?・・・と、繰り返しますが、私の下衆な勘繰りでしかありません。

 

 

 所詮、私個人の見解と言われれば、それまでですが、ひよっこのストーリーそのものや、展開のパターン、そのスピードに、大きな問題があるとは思えません。少し、気になる点があるとすれば、茨城編でも、東京編でもあった、季節が一気に変わってしまう、あの時間の進め方でしょうか?

 

 一代記の朝ドラだと、あれをやられても(一年後、三年後、みたいなことがあっても)、大した違和感はないのですが、青春記(ひよっこ)の場合は、「○○の話に、これだけ費やした後で、すぐ何ヵ月も時が流れるのって・・・」と、どうしても違和感が出てしまう印象です。

 

 また、「このドラマ(ひよっこ)、10年もの時間、要らないんじゃ?本当に、10年やる必然性あるの?」という疑問も、浮かんでしまいます・・・。 

 

 

 ひよっこの今後の展開ですが、主人公のみね子が普通の若い女性で、大きな夢を叶える話にはならないことを考えると、ドラマのクライマックスに待っているものは、結婚や出産のような気がします。そこに、失踪していた父・実を始め、これまでの登場人物たちが絡んで、きっと、岡田脚本らしい、感動的な話(ハッピーエンド)になるのでしょう。 

 

 こうなると、今後のひよっこの楽しみ方は、「失踪した父・実の問題が、どう片付いていくのか?」以上に、「みね子の恋人は、誰になるのか?」になっていくのかも知れません。

 

 もちろん、その他にも「時子は、女優として成功するのか?」、「三男は、時子と、あるいは、米屋の娘と、あるいは、別の誰かと結婚するのか?」、「愛子は、どういう形で、幸福になるのか?」、「豊子と澄子に、再び、焦点があたることはあるのか?」、「10年後、ちよ子と進は、どういう成長を遂げるのか?」、「茂は、やっぱり、10年は持たずに、死んじゃうのか?」などと、注目点は、いくらでもあります。

 

  これも、脚本家の岡田氏が、「展開が遅い」、「また、寄り道エピソード」、「主人公の存在が埋没している」、「失踪したアイツは、放ったらかしか?」と、ネットで野次られながらも、「脇役たちのキャラ設定を、ゆっくり、しっかり、やってみた成果」でしょう。

 

 ひよっこは、もうすぐ第三部「すずふり亭・あかね荘編」が始まるようですが、これまで同様、これからも楽しみです。

 

 

 読者の皆さん、性懲りもなく、今回も、私の無駄な長文に付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした。

 

 お暇な時、また、アクセスして貰えれば、幸いです。


 有り難うございました。