詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

個人のメディアの時代がやって来て、社会(情報)の多様化を促すという、幻想について

 

 大袈裟な記事タイトルになっていますが、論文めいた話でもなければ、特に長文でもありません。ただのエッセイです。いつもそうなので、断るまでもないですが、大した話ではありません。

 

 以前、私は、このブログで「はてなブログ新着」というサイトを見ることが、趣味になりつつあることを、記事にしました。

 

 その時間帯は、不規則ですが、今でも、大体、毎日、一日20分~30分ほど、はてなブログの新着サイトを、見ています。

 

 そして、感じたことですが、個人のブログ(メディア)が発信する情報の、大部分は、受信する側の、ある個人にとって、かつ、多くの人間にとって、「要らない情報」でしかなく(もちろん、私のブログの情報も)、多少、有益に思える情報も、ただの「模倣」でしかない場合が多く・・・個人が情報を発信出来るようになったから、世の中が多様化して、新聞やテレビなど、既存の大手メディアが、パイを食われて、影響力を失っていくという説は、全くの幻想で、これからも、多くの大衆は、そこに含まれる無名の個人は、既存の大手メディアに振り回されるだけ、時には、その情報のおこぼれをもらって、自分が、オリジナルの情報を発信している気分になるだけ・・・既存の大手メディア同士も、ライバル同士で、模倣し合って、似たりよったりに見える状況を考えると、「多様化の時代の到来」どころか、「画一化の時代の到来」、あるいは、日本に限らず、人間の社会なんてものは、元からずっと、「画一化の時代(多様化と言えるまでには、至らない時代の継続)」だったのかも知れません。

 

 インターネットという、いかにも文明的なツールが、世の中に浸透したから、個人が、ブログやSNSなどを使って、世界中に情報を発信出来る、良い時代・・・否定はしませんが、大半の個人は、これといって、発信したい情報など、ないように思えます。

 

 ブログやSNSを始めても、長期間、更新しない人がいることは、普通のことですし、更新したところで、「更新のための更新」に過ぎなかったり・・・ハッキリ言って、他人からみて、それどころか、情報を発信した、本人にとってすら、価値のある情報とは言えないものが、ネット上に散乱し続けることを、「社会(情報)の多様化」と定義することに、私は、強い違和感を覚えます。

 

 

 再び、はてなブログ新着サイトの話に戻りますが、おそらく、私にとって、このサイトを見ることは、今後、趣味ではなく、月1くらいで見るかも知れない、暇潰しに、格下げされていくと思います。

 

 どうせ、これからも、これまでと同じような傾向で、同じようなブログが、同じような情報を、垂れ流し続けていくだけに、決まっていますから・・・。