詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

わろてんかの評判は最悪、しかし、視聴率は比較的好調、その訳は?


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 NHK・朝の連続テレビ小説「わろてんか」は、メディア・批評家・ネットの評価、どれをとっても、好意的な評価より、否定的な評価の方が、明らかに、上回っているにも関わらず、視聴率というモノサシだけなら、今も20%前後を維持、おそらく「朝ドラだから(習慣だから)観ている」という視聴者が、大部分とはいえ、不思議なことがあるものです。

 

 そんな不思議な現象を巻き起こしている、謎ドラマ「わろてんか」は、それにしても、何故、ここまで、批判されてしまうのでしょうか?

 

 そして、何故、それでも、わろてんかは、及第点と言っていい、安定的な視聴率を、維持し続けることが、出来るのでしょうか?

 

 それでは、この2つの「何故?」について、簡潔な箇条書き風に、語ってみようと思います。

 

  

 わろてんかが批判される、理由について

 

「タイトル負けしている。つまり、笑えない」

 

「偶然、見ちゃう、偶然、聞いちゃう、偶然、会っちゃうなどの、ドラマの御都合主義における、『偶然』の数が、ギネス級!」

 

「ドラマ上の時間の経過が(物語的にも、その場面的にも)よく分からない。ついでに、大半の登場人物の年齢も、分からない」

 

「登場人物の、過去の発言や行動と、今の発言や行動の、整合性がつかないケースが多い」

 

「キャラ設定の失敗。その典型例が、ヒロイン・てんの、『取り敢えず、笑っとけキャラ』であることは、致命的?」

 

「きちんと、不幸を描けていない。きちんと、不幸を克服する過程を描けていない。しかし、てんが『アハハ』と笑えば、全てが完了!」

 

「ナレーションが、見れば分かることを説明してきたり、煽るだけ煽って、それに相応しい、出来事が起きない」

 

「関西弁、特に京都弁がおかしい」

 

「時代考証の問題。特に、自由過ぎる女中たち・・・」

 

「吉本せいをモチーフにしている感じが、全くしない。いっそ、脚本家の完全オリジナルと言ってくれた方が、吉本にとっても、良かった?」

 

「その時代の言葉や、お笑いなどの専門的な用語が、度々、出てくるが、おそらく、脚本家自身、よく理解せず、使っている」

 

「大事な場面であればあるほど、キャラ同士の会話が、噛み合っていない」

 

「脚本家に、『普通だったらこう』という、常識がない(あくまで疑惑)。テクニックとして、セオリー破りをするのではなく、あらゆるセオリーについて、何も考えたことがない脚本家が、このドラマを書いている(あくまで疑惑)」

 

「このドラマの脚本家は、本来、コメディーをやるような人物ではなく、恋愛ものを得意としているそうだが、その割には、恋愛に関する、設定も、シーンも、かなりのベタ!例えば、てんと藤吉が、みかんを食べようとして、お互いの手が・・・なんて、今時、赤面もの!」

 

「過去の朝ドラの良いところの、つまみ食いが、露骨過ぎる!」

 

「視聴率のために、『吉本新喜劇風ドタバタ』、『てんの兄の死』、『完璧な人設定の伊能様』、『ロミオとジュリエット』、『女中(てん)をいびる』、『嫁候補対決』、『母親(鈴木)対決』など、色々と、あざといエピソードを、放り込んでくるが、全て、イマイチな仕上がり!」

 

「とにかく、雑な展開で、視聴者が『アレ?』と思ったら、『そちらで、脳内補完してください』という、セルフサービス方式の不親切!」

 

「わろてんかの現状は、ストーリーの骨格だけあって、殆ど、肉付けがされていない、ダイジェスト・ドラマであり、このままでは、151話なんて、持たない?つまり、展開のペース配分を間違えている。特に、たった一週で、無一文のはずの、てんと藤吉が、寄席を手に入れてしまうとか・・・」

 

  

 何故、わろてんかの視聴率は、安定している(及第点を取れている)? 

 

「多くの人にとって、笑えない、ベタな笑いにも、その理解者は、一定数いる」

 

「ドラマの御都合主義なんて、『ドラマなんだから仕方ない』と、達観している人たちが、一定数いる」

 

「ただ、観ているだけで、キャラがどうとか、台詞がどうとか、展開がどうとか、気にしたことはないという人たちが、一定数いる」

 

「てんが、いつも笑っているので、明るくて良い、と思っている人たちが、一定数いる」

 

「てんが、どんなピンチの時も、笑っているので、ポジティブで良い、と思っている人たちが、一定数いる」

 

「説明的なナレーションは、鬱陶しいどころか、良いサービス、と受け取っている人たちが、一定数いる」

 

「関西弁(京都弁)の質なんて、ドラマにおいては、枝葉の問題だと思っている人たちが、一定数いる」

 

「時代考証なんて、自分もよく分からないし、気にならないという人たちが、一定数いる」

 

「モデルの人生を無視している、という批判の前に、『ところで、吉本せいって誰?』という人たちが、一定数いる」

 

「たとえ、会話が噛み合っていなくても、それが、何を言わんとしているかは分かるので(むしろ、各台詞は、説明的なくらいで)、違和感はないという人たちが、一定数いる」

 

「部分的に、『常識的じゃない』ところが、多々、あったとしても、物語全体として、ベタな話(先が読める話)だから、内容は分かるので、問題にしないという人たちが、一定数いる」

 

「ベタな笑いへの理解者がいるように、ベタな恋愛シーンの理解者も、一定数いる」

 

「過去の朝ドラの良いところの、つまみ食いだから、色々と、楽しめて良い、と思っている人たちが、一定数いる」

 

「視聴率狙いの、あざといエピソードは、狙っているだけあって、分かっていても、やっぱり、見てしまうという人たちが、一定数いる」

 

「脳内補完しなきゃいけないシーンが、多いドラマの方が、自分の想像力が鍛えられて、有り難いと思っている人たちが、一定数いる(あるいは、ドラマの中の間違い探しを、楽しんでいる人たちが、一定数いる)」

 

「ダイジェスト・ドラマの方が、ダイジェスト殺し・ドラマ(前作のひよっこ)より、面白いと思っている人たちが、一定数いる」

 

 

 とにかく、結論として、世の中には、色々な人たちが、一定数いるというだけで、わろてんかが、視聴率的に、過大評価されていたところで、大して、不思議なことでは、ないのかも知れません。

 

 ただ、脚本を読んだら、すぐ、「おかしい!」と気付くはずの、台詞や場面や展開があっても、知らんぷり・・・しかも、ストーリーとは、さほど関係がなく、修正しようと思えば、すぐ、修正出来るものさえ、そのまま撮影し、放送してしまう、製作統括・プロデューサーの、不誠実さを考えると、わろてんかの視聴率、もう少し、下がってくれた方が、今後の、朝ドラのため(朝ドラ・ファンのため)かと、私は思っています。