詩と寓話とシュールレアリスム

タイトル通りのテーマです。シュールな詩と寓話を書きます。たまに、ブログの話やテレビの話、日常生活にあったことを書こうとも思います。

今更ですが、宮沢賢治「やまなし」を、お勧めする(感想を語る)記事です!


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 宮沢賢治の「やまなし」は、400字詰め原稿用紙、10枚にも満たない、いわゆる掌編小説でありながら、章タイトルが、「五月」と「十二月」の、二部構成になっており、その作風は、きわめて詩的・感覚的・幻想的、かつ斬新で、そのうえ、決して、子供騙しではない、ユーモアに満ちています。


 前編(五月)、後編(十二月)を通して、作中に登場するのが、蟹の兄弟と、その父親であることを考えれば、この作品のタイトルは「蟹の親子」、前編の章タイトルが「クラムボン」、後編の章タイトルを「やまなし」にした方が、妥当かと思われますが・・・こういう杓子定規にとらわれない、直感的な創作態度こそ、賢治の魅力なので、こういう指摘は、「別に、どうでもいいこと」と言えるでしょう。


 もちろん、「何故、五月と十二月の二部構成?」、「春夏秋冬で、四部構成にするべきだったのでは?」などという指摘があったとしても、「やっぱり、どうでもいいこと」と言えるでしょう。


 この作品は、後編(十二月)の、蟹の兄弟が、自分の吐く泡の大きさを競い合ったり、谷川へ、トブンと落ちて来た、やまなしを追い掛ける、蟹の親子の話も良いのですが・・・前編(五月)に出て来た、謎の存在、「クラムボン」の、強烈なインパクトには、到底、敵わないような気がします。


 何の説明もなく、蟹の兄弟の間で交わされる、クラムボンの話・・・最初は、「かぷかぷ笑っていた」のに、いつの間にか、「死んだよ」、「殺されたよ」、「死んでしまったよ」と、読者にとって、予想しえないダークな展開が・・・蟹の兄弟は、クラムボンが笑っていた理由を「知らない」、クラムボンが殺された理由も「分からない」、そんな状況下、死んだはずのクラムボンが(あるいは、別のクラムボンが)、再び、笑い出したと思ったら・・・もう、クラムボンの方は、お役御免で、かわせみの話に移っていきます。


 この作品において、クラムボンが、謎の存在であるべきなのは、分かりますが、それにしても、もう少し(蟹の兄弟の会話を、数行、足すだけでもいいから)、クラムボン情報(クラムボンの出番)が、欲しかった・・・そう思った読者も、少なくないのでないでしょうか?



 最後になりますが、魚がかわせみに捕まり、上の方に連れて行かれるのを目撃した、蟹の兄弟が、ぶるぶる震えながら、「お父さん、お魚は、どこへ行ったの?」と訊いた時、蟹の父親は、「魚かい?魚は、こわいところへ行った」と答えた後、「いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう?」と続けるものの(子供たちの恐怖を、紛らわそうとするものの)、それを見た、蟹の弟の感想が、「こわいよ、お父さん」だったことが、何とも言えないユーモアがあって、筆者の、好きな場面のひとつです。



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